たとえ、遠い国の言葉であったとしても
權田菜美 (振付・衣装)
2020年12月12日
共感の時代、多様性の時代だと言われる。
耳障りのいい言葉に抽象化されてしまう前の現実が、果たして私にはどれだけ見えているのだろうか。聞こえているだろうか。声なきものの声を、歌を忘れさせられたものの歌を、聞こうと、分かろうとしているだろうか。家父長制や、資本主義を内面化した自己の暴力性を正当化することを優先させてはいないだろうか。
DAYAが立ち上がった時を同じくして、私は12年暮らした東京を離れ、ニューヨークで暮らしはじめた。ここでは、英語、スペイン語、フランス語、アラビア語、中国語、韓国語…、様々な言語を使う人々とすれ違う。知らない響きの言語を耳にすることもある。
私は英語と日本語しか話せない。英語ひとつとっても、沢山の方言や訛りに溢れている。簡単な言葉でも聞き取れず、分からないことがある。相手の言いたいことに耳をよく澄まし、集中して聞こうとする。すると、少しずつ聞こえてくる。出会ったその日には聞こえなくても、何度か会ううちに聞こえるようになる。
言葉が聞こえるようになる過程には、焦燥や不安があるが、少しずつ変わってくる。
DAYAの挑戦は、性暴力被害者の声を届けること。
ニュースや裁判結果を見れば、性暴力被害者から発せられる「嫌だ」という単純な言葉でさえ、届かず、疑われ、否定され、殆どの場合、意味を奪われてしまっている。そして最後は無かったことにさせられる。
初めての作品となる「パサレラ~小夜鳴き鳥の声がする」も、当事者の言葉が詰まっている。
DAYAの舞台から聞こえてくる声は、あなたにとって遠い国の言葉に聞こえるかもしれない。
他者の体の奥底から発せられる叫びが、遠い国の言葉に聞こえた時、
あなたはどうするだろうか。
私はどうするのか。
その問いはこうも言い換えられるだろう。
私は誰と共に立つ人間でありたいのか。
私は、声を奪われた人たちが、もうこれ以上黙らなくていい、自分に嘘をつかなくていい、自分を恥じなくていい、隠し続けなくていい、そんな世界がほしい。
私は小夜鳴き鳥たちと共に立ちたい。
DAYAの取り組みと作品は、
暴力も優しさも溢れているこの世界の、今この瞬間に触れられる世界の変化そのものである。